日記録4杯, 日常

2020年3月23日(月) 緑茶カウント:4杯

父と猫が住んでいた実家がからっぽになることになった。老人ホームに入る祖父と一人家に残る祖母の面倒を見るために遠い遠い山奥へ父が引っ越すことになったからだ。しばらく実家はそのまま置いておくこととなり、後々どうするかは改めて検討することとなるが、もうここに帰っても誰もいない。

長年親しんだ固定電話の番号を押しても出る人はいなくなって、その番号も我が家のものではなくなって、電気もガスも途絶え、ネット回線も途切れる。衛星放送の契約も解除し、回覧板が届けられることもなくなる。毎年毎年ゴールデンウィークと盆と年末年始には帰省して父と猫と過ごしていたが、その時間ももう、無い。

あぁ、当たり前にあると思っていたものがこんなに突然無くなるなんて。人生ってのはわからないものだなぁ。

予定を調整して急遽実家に帰り、父と猫と食卓を囲み、なんでもない時間を過ごした。昔何度か家族で行ったレストランを予約し、ささやかながら父の退職祝いをした。父が何度再現しようと試みても辿りつかない、亡き母の思い出の料理を二人で食べ、感想を述べあった。写真を撮られることが苦手だったが、思い出を残すために猫と写真を撮った。子供の頃からお世話になっている友人のおじさんおばさん達に挨拶に行った。友人はね。約束をこしらえれば東京でも会えるけどね。おじさんおばさんにはなかなか会えないからね。

そんな中で嬉しかったこと。幼馴染の家を訪ね、もう一人の友人の家に行こうとした道すがら。会えないと思っていた人との再会を果たしたのだ。

それは友人のおじさんおばさんで、成人してからも帰省のたびに友人に会うためにお店を訪ねていたのだが、いつからか友人のおじさんおばさんと話しこむことの方が増え、友人が家を出た後にも自分はおじさんおばさんに会うためにお店に寄っていた。しかし五年前。母が亡くなってから人に会うのがしんどくなって二年ほど足が遠のいていて、あるときもう一度会いたいと思えるようになったときにはおじさんおばさんはお店を引退。友人のお兄さんがお店を継いでいておじさんおばさんは引っ越してしまっていた。

そのおじさんおばさんが、いないはずの二人がお店にいたのだ。

思わず駆け寄った。おじさんおばさんも驚きながら再会を喜んでくれた。曰く、普段は友人のお兄さんがお店にいるが、日曜日だけおじさんおばさんが働いているのだそうだ。代替わりと共にリフォームされた店内は様変わりしていたがおじさんおばさんは五年前のままで、わーっと話しても話しても話したりなくて、あっという間に一時間が経ってしまった。

幼馴染のお母さんは「息子が帰省するタイミングに合わせてまた帰っておいで」「足りないものがあったら送ってあげるから遠慮なく言いなね」と言ってくれ、お店のおじさんおばさんは突然の再会を心から喜んで、ずっと心配してたと言ってくれ、その後に会った友人のお母さんは「うちはたくさん部屋があるからいつでも泊まりにおいで」「台風とかあったら、一声かけてくれたらいつでもおうちの様子を見に行くよ」と言ってくれた。

嬉しかった。何と言うか、温かい人ばかりだなぁ。

悲しいこともあるが、嬉しいこともある。嬉しいことをなるべく胸に抱えて、大事にしながら生きて行こう。そう思いながら名残惜しみつつ、住み慣れた家を後にした。またいつか、戻ってきたい。



日記録4杯, 日常,

2018年10月18日(木) 緑茶カウント:4杯

こうも寒くなってくると、屋台の暖簾をくぐって味の染みた大根とごぼう巻をつつきながら、くいっと熱燗を傾ける……なんて背中に憧れる。

ところが残念なことに、とても残念なことに。己は日本酒が苦手なのである。

日本酒も焼酎もピンと来ず、美味しく呑めるのはビールばかり。ハイボールもあまり得意ではなく、好んで呑むのはウイスキーの香りが消えるほど大量にレモンを絞ったレモンハイボールのみ。何にせよ呑めるのは冷たい酒ばかりで、お湯割りや熱燗とは縁がないのだ。

故に憧れる。あの温かな湯気に含まれるアルコールと出汁の香りを嗅ぎながら、胃の腑の底に火を点す寒い夜の晩酌に。

あぁ、良いなぁ。やってみたいなぁ。
いつか楽しめるときが来れば良いなぁ、と願って。



未分類4杯, のほほん学校, 大槻ケンヂ, 非日常

間違いなく、これまで参加したのほほん学校の中で一番楽しく、面白かった。腹を抱えて笑い、こんなに贅沢な時間を過ごしてしまって良いのかと過剰な幸せを抱えきれなくなりそうなほど。
何が楽しいって、終始己の大好きな筋肉少女帯の話題が語られたことだ。

ゲストはネオディスコードのファンタさんにNoGoDの団長、そして内田さんとエディの四名。まずはオーケン一人がステージに現れ、昨今の近況を語り、秋に発売する筋肉少女帯のアルバムの作詞が進んでいることを教えてくれた。

ちなみにこの日は番号もまあまあ良かったのだが、ぽっかり空いた席を見つけたおかげでのほほん学校では初めての前から二列目をゲットした。この視界の良さったら! 間近にオーケンを観ることができて最高に嬉しかった。

ファンタさんが登壇してからはオーケンのネットには書けないあれやこれやな話が披露され大いに盛り上がり、話は代わってファンタさんの近況へと移る。するとNoDoDの団長に誘われて筋少のコピーバンド「筋肉杉並」を結成した話が語られる。曰く、団長とは一回しか会ったことがなく、他のメンバーとの面識も全くない中でバンドが組まれたそうだ。故に今日会うのもほとんど初対面とのことである。

そして団長もステージへと呼ばれ、筋少のコピーバンドを行ううえでの秘訣がオーケンより伝授される。そこへ持ってこられたのはリュックサックで、中から出てきたのは写真の束。オーケンの成長記録を写した写真とのことで、これがスクリーンにでかでかと映し出されるのだが、これがまあ何と言うか。何と言うか面白かった。

裸ん坊でニコニコ笑う赤子のオーケンから始まり、家の前でお兄さんと並ぶ記念写真では既に笑顔が消えて、クラスメイトとの銭湯での入浴写真と学校行事で楽しげに笑う写真などが披露されたかと思えば、ブルマーに網タイツを穿き、顔にうどん粉を塗って袋を被った不審者極まりない姿が映し出され……たと思ったらデビュー後の森の奥に棲む妖精と見紛うような美青年の写真。「何度か入れ替わっているに違いない」と言うオーケンの言葉にうっかり頷きそうになる変貌の記録であった。

その一枚一枚に団長とファンタさんは衝撃を受け、小気味良いツッコミを入れてくれるからたまらない。ゲラゲラ笑いながらステージを観ている自分に反して、オーケンは真面目に闇の深さこそが筋少を作ったと語り、団長が真似できないと降参する。

では、筋少を知るうえで欠かせない、歴史を知るメンバーをお呼びしましょうということでステージに現れたのはうっちーとエディ! 贅沢! 何て贅沢!! エディから筋少在籍時のツアーの過酷さが語られ、うっちーのMacを背負ってツアーを行い、ライブ終了後すぐにシムシティで遊んでいたエピソードが披露された。曰く、シムシティが精神安定剤だったとのことである。

その流れで内田さんの最近の活動にも触れられ、急遽テクノを披露することに! 選ばれたのはエディが自身の代表曲と自認する「サンフランシスコ」。Macとボコーダーがセッティングされ、うっちーによる演奏が始まる。ピコピコサウンドでうっちーによりこれでもかと編曲されたサンフランシスコは……作曲者のエディにも「どこがサンフランシスコか」理解できない昇華具合で、その困惑具合が楽しかった。

また、そこに「別の曲を歌ってみてもいいのではないか」というオーケンの思いつきによりうっちー編曲のサンフランシスコに乗せてイタコLOVEを歌い上げながら踊り、それに合わせて団長も踊り、サンフランシスコなのに! と拗ねたうっちーが無言で曲を止め、そこにオーケンが謝ってまた曲が始まったかと思えばオーケンが別の曲を高らかに歌ってうっちーがブツンと曲を切る、というやりとりが繰り返された。うっちーの電子楽器に興味深げに触れるファンタさんも可愛らしかったなぁ。

そうそう、この前だったかな? 「筋肉杉並」のキーボーディストが怪我で急遽参加出来なくなったことを団長が話すと、エディが「いないの?」と興味深げに声をかけ、もしかしたらエディが参加をしてくれる……!? と思わされる展開が熱かった。団長も興奮していた。実際どうなるのだろうなぁ。

うっちーとエディが退場してから、筋肉杉並の二人が無茶振りで本番前にちょっぴり練習しただけの「日本印度化計画」を披露し、コーラスはオーケンと観客に任されたものの、事前確認したにも関わらずオーケンは見事にコーラスを間違えてタハハとなった。でも、二人とも流石にファンでミュージシャンだなぁ。今日この日にいきなり合わせたとは思えない出来栄えだった。すごいなぁ。

のほほん学校にしては珍しくチェキの販売もあったので喜んで買って帰路に着いた。ゲラゲラ笑って、大好きな筋少の話題を存分に聞けてこれ以上なく楽しいイベントだった。こんなに幸せになってしまって良いのかと疑心暗鬼に陥りそうになるくらいだ。あぁ、幸せだったなぁ。

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日記録4杯, 日常

2018年6月27日(水) 緑茶カウント:4杯

身近に性悪説を自称する人がいる。それは良い。まずは疑うことから始めると言う。それもまぁ良い。

ただ、その人は性悪説を免罪符にして事実確認の手間を惜しむ自分を肯定しているだけなんだな。

ということに気づいたのは最近か。何かにつけて疑ってかかるその人は事実を確認しないまま「こうであるに違いない」と決め付け、人を攻撃する。年若い人は驚いて黙ってしまうが、その衝撃を受ける様を見てその人はさらに「それ見たことか」と断罪する。で、結果どうなるかと言うと嫌われる。その空気をその人は感じている。そして「自分は世の中をシビアに見ているから」「自分のような嫌われ役も必要だ」と自身の役どころを自ら設定し、肯定する。

でも違うんだよな。性悪説云々がどうではなくて、単にその人は面倒臭がりなんだ。ところがそのことに気づけずにいるんだ。

距離を置き、眺めながら考える。いつかそのことに気づく日が来たとき、その人は何を思うだろうかと。もう一つ考える。指摘するべきだろうかと。同時に思う。そこまでする義理もないな、と。それは自身もその人に断罪されてきた身ゆえに。

どうだろう。いつか気づく日が来るのだろうか。



日記録4杯, 日常

2018年2月27日(火) 緑茶カウント:4杯

かつてある人にマジギレしたことがあった。それを己は後悔した。説明不足だったと思ったためだ。ところが、その人は己のマジギレをきっかけに対象について考えてくれ、認識を改め、当時の言動を恥じたことを告白してくれた。それが本日である。

その人はかつて、セクシャルマイノリティがマイノリティのくせに何かしらを主張することが我慢ならないと言った。それに対して己は怒った。しかし言葉が足りなかった。ところがその人は己が怒ったことをきっかけに、対象について調べ、考え、どうして己が怒ったのだろうと考えてくれた。

では何故己が怒ったかと言えば、セクシャルマイノリティをないがしろにする怒りももちろんあるが、さらに言えば誰しもが何かのきっかけでマイノリティになることが考えられるのに、それに対して思いを馳せる力をその人が持たなかったためだ。それを全く考慮せず、マジョリティとして安全地帯から物申す視点に激怒した。ひとたび交通事故にあえば、病気にかかれば、時代が変わればその立場は一瞬にして揺らぐ可能性があるだろうに。

しかしその人はそこに想いを馳せ、理解して、告白してくれた。ありがたいと思う。同時に自分も思いをめぐらせねばと思う。自分の視界の外にはいくらでも自分の知らない世界がある。それを意識しようと努力することが必要だ。それを努めようと願った。そうしてビールを傾けた夜である。美味いビールだった。美味しかった。とても。とても。