未分類2杯, 筋肉少女帯, 非日常

2020年10月18日(日) 緑茶カウント:2杯

泣くかな、と思ったけど意外と泣かんかった。
ただ、やっと戻ってきたという感慨ばかりあった。

毎年恒例の十二月二十三日のライブを最後に、十ヶ月ぶりの筋少。一時期はね、筋少を観たいという欲求を自覚することが辛くって数ヶ月ほど筋少を聴くことができないでいた。絶対に満たされることのない欲求に渇望し、焦がれることがしんどかったんだ。

そして十ヶ月ぶりに、全身で筋少を浴びた。

消毒と検温とマスクが必須で、声も発することができない。物販もないし、終演後ビールを片手にふわふわ余韻に浸ることもできない。
でもそんなことなんか、全くどうでもいいって思えるほど素晴らしいライブだったんだ。

コールアンドレスポンスの代わりに、「問うならば」のリズムに合わせて手拍子をして、日本印度化計画で橘高さんは客席へと投げる代わりにピックシャワーを頭上にばらまき、それはまるで紙吹雪のように美しくて華やかで、オーディエンスの声援を補うメンバーのコーラスはいつも以上に野太くて、本当に、格好良かった。

この日己は二階席からステージを見下ろしていて、ずっと頭上にあるはずのミラーボールが目の高さよりもやや下にあって、煌めく美しい光線がくるくると会場を色とりどりに染め上げて、あぁ、そういえばこんなにキラキラしたもの、しばらく見てなかったなぁなんて思ったんだ。

電車の乗り換えすら久しぶりで、乗り換えという感覚が己の中から抜け落ちていたために乗り慣れていたはずの路線でうっかり逆方向に乗ったり乗り過ごしそうになったりして、あわあわしながら会場に向かった。そして自らの座席に着いて、今まで一度も袖を通していなかった特攻服シャツを着て、通販で買った物販のタンバリンを持って、口中がカラカラに乾くのを感じながらひたすら開演の時を待ったんだ。

一曲目の「孤島の鬼」が始まった瞬間の、胸がいっぱいになる感覚。ずっと聴きたかった、六人の演奏。筋肉少女帯という六人のメンバーによる化学反応を己はずっと欲していた。この六人により描かれる色彩を、ずっとずっと観たかった。

「枕投げ営業」が始まった瞬間タンバリンを異様に振りまくってしまったのはまさかこの大好きな曲を今日この日に聴けるとは思っていなかったからで。だってあまりにも大好きでたまらなくて、嬉しくて泣きそうになった。「ゾンビリバー」のイントロが流れて血液が沸騰し、気付いたら腕を振り上げていた。この怒涛の、濁流のような音に飲まれたいとずっとずっと思っていた。

本編ラストの「ディオネア・フューチャー」で心がぐらぐらして、この曲を本編最後に持ってきてくれることが嬉しくて。コロナ禍の今は、コロナ禍前と比べれば来世みたいなもんだなぁと思って、でもまた会えて。いつか会えなくなる日が訪れることが怖くて、だけど何とかその日を乗り越えられるように一つ一つのライブを噛みしめようと改めて思わされて。だってこの日この場にいられるのは、ただただ運が良いだけだから。たまたま東京に住んでたっていう、それだけ。もしこのライブが新幹線や飛行機の距離で開催されたなら、きっと自分は行く決心を持てなかっただろう。そして同じように思って申込みをしなかった人が必ずいるはずなのだ。

アンコール一曲目で歌われる「喝采よ!喝采よ!」がいつになく染みて。オーケンの生き方が感じられた気がして、あぁ、やっぱりこの人はステージで生きる人なんだ、と改めて。最後のサンフランシスコでは、この半年、いやそれ以上ぶりに大きく地を蹴って、足首がぐにゃぐにゃになったらどうしようって思ったものの何とか着地できたんだ。

デビュー三十二年目の筋肉少女帯。コロナ禍の中でのコールアンドレスポンスも声援もないライブを、オーケンは誰よりも危惧していただろうと思われる。しかし三十二年目にして初めての異常事態を楽しむ気概で臨み、この状況を利用してより面白い空間を作り上げようとする姿が本当にプロフェッショナルで、頼もしくて、ありがたくて、嬉しかった。

いつかまたもみくちゃになりながら大声を上げられる日が来るまで。手洗い除菌マスク、健康的な食事と睡眠に努めて、大好きな筋少に迷惑をかけないように。そしてまた大好きな筋少を観られるように。日々を生きて行こうと思った。あぁ、この日を迎えられて奇跡のように思う。そして努力次第でこれはまた、スタンダードになってくれるんだ。

よし。頑張るぞ!

日記録2杯, 日常

2020年10月9日(金) 緑茶カウント:2杯

まぁ、足立区が滅びるなんてこともないんだけどね。

やるせないなぁってげんなりした足立区議の同性愛差別発言。同性愛者の権利が認められたところで「よっしゃーじゃあ自分も今日から同性愛者になろ!」と思い立つ異性愛者などいないだろうし、同性愛者の数が増えるわけでもないし、少子化が加速するわけでもない。少子化を抑止したいなら子供を望む人々が安心して子育てできる制度や仕組みを作っていかねばならぬだろうに、どうしたってそんな単純なことがわからないかなぁ。

と、ため息をついていた矢先。それはもう素晴らしい、明るいニュースが飛び込んできた。
新明解国語辞典の新版が九年ぶりに発売されることが決まった。そしてその最新の第八版では「恋愛」の語釈が変えられたそうだ。同性に恋心を抱く人や性別を持たない人を考慮し、書き出しが「特定の異性に対し」から「特定の相手に対し」になったという。

びっくりして、嬉しくて、感動してしまった。
だって、辞書に触れる機会が多いのはきっと言葉を学び始める子供達だから。

足立区議の発言で、自分は同性が好きだと気付いた中高生が悩んだり悲しんだり存在を否定された気持ちになったり、そんな風に苦しんでいないだろうか、と思っていた。まだまだ自分のことがわからなくて、情報に辿りつけない子供達が絶望的な気持ちになっていないだろうかと思っていた。

ありがとう、新明解国語辞典。
新明解国語辞典は家庭用の小型辞書の中で一番流通している辞書だ。つまり多くの子供達がこの辞書に触れる。ということは、「恋愛」という項を引いたとき、いらない疎外感に悩む必要がなくなって、自分の感情に向き合える一助になってくれるかもしれない。自分はおかしいんじゃないかと悩まないで済むかもしれない。

同じ言葉でも、時代によって語釈は変わる。そして辞書はその時代の言葉を写し取る。辞書の語釈が変わったということは、世の中が変わりつつあることを表している。どっかのじいさんが心無いことを言ったところで確実に世の中は少しずつ変化していくし、足立区が滅ぶこともない。

ちなみに同じ三省堂から出ている「三省堂国語辞典」は六年前に発売された第七版の時点で「恋愛」の対象が異性を限定しないものに書き換えられている。きっとあと何年かでこの書き方がスタンダードになって、もうちょっと世の中も変わっていくだろう。だからね。恐らくこの日記を小さな子が読むことは少ないだろうと思うけど。大丈夫だよって伝えたい。あなたは決して異常じゃないし、世の中も少しずつ変わっていくから。

って、言葉にするのが少しばかり長く生きた大人の役目かな、って思った日だったのさ。
少しずつ変えていけるように、頑張るよ。



日記録2杯, 日常,

2020年7月30日(木) 緑茶カウント:2杯

緊急地震速報のけたたましいアラームに叩き起こされ、呆然とスマートフォンを掴む。時刻は朝の十時前。昨夜は深酒をしたために寝たのは明け方の五時頃で、しかし二度寝を決め込もうにも神経が高ぶってしまって眠れない。

誕生日の朝としては、わりと最悪な目覚めであった。

仕方なしに布団から抜け出てパソコンをつけ、だるい頭と体に悩まされながらぼーっとネットサーフィンをすること二時間。するとどうしたことだろう。ポン、とメールがメールボックスに届き、いったい何かねと思いつつ開いてみれば、コロナの影響で延期になっていた筋肉少女帯のライブが中止になった報せであった。

誕生日に受け取る報せとしては、かなり最悪の部類であった。

あぁ、今日は惰眠を貪って昼過ぎに起きてゆるゆる過ごそうと思っていたのに。いったいどうしてくれようかと悲しみながら悩み、これはもう何かで相殺、もしくは上書きするしかなかろうと結論し、やりたいことを考えた。

やりたいこと。やりたいけどできていないこと。とすると浮かんできたのは、好物の鰻。かつては誕生日に鰻を食べることを楽しみにしていたが、絶滅危惧種に指定されていると知ってから鰻を食べないことを自分ルールとして課して生きていて、しばらく鰻を食べていない。鰻。でも、コロナでいろいろ我慢してるし、楽しみも無くなるし、だったら一回くらい、解禁しても良いかなぁとちょっと前から思っていたのだ。年に一回、今年だけ、ちゃんとした鰻屋で食べるくらいは許したい。

で、決めた。今日は鰻を食べよう。そして鰻に付随して思い出すのは、大学の頃友人達と目黒寄生虫館に行って、その帰りに美味しい鰻を食べた楽しいひととき。目黒寄生虫館は年に一度くらいの頻度でちょこちょこ行っているが、また行きたい。で、決めた。よし行こう。寄生虫を見て、鰻を食べて、そしてケーキを買って帰ろうではないか。

嬉しいことに今住んでいる家から目黒寄生虫館はわりと近くにあり、まぁまぁ頑張れば徒歩で行ける距離である。とはいえ駅数個分の距離を何らかの必要な用事以外で移動するのは随分久しぶりで、コロナが蔓延してから自宅と近所の商店街以外ほとんど出歩いていないためにそれだけで心が沸き立って、汗をかきながら歩くことさえ楽しかった。

そうして着いた目黒寄生虫館はなんと独り占め状態。十代の頃から既に何度も見ているため好きなところを好きに眺め、展示の細かな変化を楽しんだ。二階にある人体から回収された九メートル近いサナダムシの標本の隣に、普段であれば同じ長さのゴム紐が設置されていて紐を伸ばすことでその長さを体感できるのだが、感染症対策でその紐が仕舞われてしまっていたことが少し悲しかった。コロナめ…………。

ゆったりと寄生虫館を楽しみ、少額ながら寄付をして次に向かうは思い出の鰻屋。わくわくしながら中に入り、ちょっと奮発して松竹梅の梅を注文して、お茶を飲みながらゆうるりと過ごし、ついにその時はやってきた。

さぁ懐かしの愛しの鰻!

美味しかった。滅茶苦茶美味しかった。ふわふわとやわらかくて、ほろほろしてて、ごはんがあまじょっぱくて、山椒がピリリと良い香りがして。
あーーーー、好きだなぁ、と食べている間頬が緩みっぱなしだった。

ふわふわと幸せな気持ちで鰻屋を出て、ついでに久しぶりに大きな本屋に寄って、あぁもうこれ何ヶ月ぶりだろう、こんな風にずらりと並んだ背表紙を眺めるのは! 楽しくて楽しくて全部の棚を眺めて回って、あぁ図鑑が欲しいなぁと思いつつ我慢して、でも絶対に次は買うぞと胸に誓った。

こんな風に外に出て、様々な品物を見て回るのがあまりにも久しぶりで新鮮だったから、ものすごい贅沢をしている気分になった。不思議だなぁ。かつてはいつでもできる普通のことだったのにね。

ケーキを買って帰ったら、注文していた通販の品が届いた。四半世紀も前に発売されたゲーム「ぷよぷよ通」のグッズがなんと今の時代に発売されることとなって、喜び勇んで買ったもの。七月末発送と聞いていたが、まさか誕生日の今日届くとは思わなかった。なんというタイミングだろうか。

そうして、過去の自分から届いたプレゼントに、ぷよぷよによって人生が良い意味で狂わされたオタクは狂喜乱舞したのであった。
見てくれ、この素晴らしさ。これが令和に手に入ったんだぜ?

Tシャツ!

タオル!

ドット絵のアクリルフィギュア!!

愛らしいグッズを眺めつつ一日の余韻に浸りながら赤ワインを開け、イチゴのタルトと白ブドウのタルトを食べて、その美味しさに悶えた。今ではもう、緊急地震速報に叩き起こされて良かったとさえ思う。何て充実した一日だったのだろう。楽しいなぁ、嬉しいなぁ。

あぁ、最高に楽しい誕生日だった。



日記録2杯, 日常

2020年4月17日(金) 緑茶カウント:2杯

ひどい無気力で動けなかった。仕方なしにベッドに横になった。疲れているのに眠れず、ただただ覚醒していて、布団の中で寒さだけを感じていた。

こいつはやべえや。ってことで、さくっと心療内科の予約を入れたのさ。

かかりつけのそこは常に込み合っているため数週間待ちが当たり前なものの、運良くキャンセルが出て翌日診てもらえることになった。ありがたい。まぁ、無理は無いと言うかむしろ納得と言うか。だって状況が悪すぎる。介護のために六十代の父が退職して遠い遠い土地の祖父母のもとに行くことになって、大事にしていた実家が空き家になって、愛する老猫も父と一緒に引っ越すことになって、実家には電気もガスも水道も通らなくなり、帰る場所が無くなって、苦手な祖父母には会いたくなくて、そんな中でコロナウイルスが蔓延して心の糧であるライブが無くなり、愛するミュージシャンとライブハウスが大事にされないことに絶望し、気晴らしも出来ず友人にも会えず、ひたすら寂しさが募る。そんな中で調子を崩さないはずが無い。

だからさぁ、必然なんだよこれは。
そんな中で、しんどくなったら心療内科に行くべき、って教えてくれたオーケンの存在がありがたい。

最初に心療内科の門を叩いたときは緊張したさ。自分が「普通の人間」の枠から外れたような恐怖感も抱いたよ。でもそれはそれこそ偏見だったんだなぁと思って、でもそれを否定して自分を責めるのも良くないとも感じていて。そうして何度か通ううち、心の状態が危うくなったら心療内科に行くのが普通になって、それこそ熱が出て鼻水が出てくしゃみが出たら病院に行くように。気軽にサクッと「よっしゃ行こう」と思えるようになったのさ。

結果、悪化せず過ごせている。
だいたい年に一回くらいのペースで通っている。
それができてありがたいと思う。

方法はそれぞれだろう。それぞれの中で、どうにか自分をキープしていこう。その一つの方法が心療内科なら臆せず行こうじゃないか。だって今は特に非常事態なのだから。
動けなくなる前に、ぜひ。もし、近い状態の人がいるのなら。



日記録2杯, 日常

2020年3月18日(水) 緑茶カウント:2杯

今日はオーケンのプロジェクト「大槻ケンヂミステリ文庫」、略してオケミスのライブがあったのさ。そのチケットを己は買っていなくて、それはスケジュール的に観るのが不可能と思われたからで、ところがチケットが完売した後にタイミングがぴたっと合って、あー惜しかったなぁ買っとけば良かったなぁと思っていたら、コロナウイルスの影響で公演が中止になって、無観客ライブの開催が決定され、おかげで己は観たかった公演を最初から最後まで観られて嬉しかったのだけれども、同時に切なかったのさ。

誰もいない観客の前でいつものようにトークに華を咲かせるステージのオーケン。客席にはレールとカメラ。歓声も拍手も無く、しかしカメラの向こうは熱狂に包まれている。その熱狂の一部が自分。

楽しくて、嬉しくて、それでいて切ない。
早く鎮まれコロナウイルス。

直近でも似たようなことがあった。楽しくて切ないこと。会いたい人に会えて、あぁたくさんお話ししたいなぁと思ったけれども叶わなくて、どちらかと言うと己の苦手な話で場が華やいでしまって、自分はただただしんどくて、つい怒ってしまって。初対面の人に望んでいないアドバイスをされて、でも自分はそもそもアドバイスを望んでいなくて、この人は己について何も知らないのにどうしてアドバイスなんかできるんだろうと思うと不思議で、ただただ嫌な気持ちを抱いた。だってそもそも、その悩みは信頼している人にだけ打ち明けたつもりだったものだもの。しかしそれが良かれと思って共有されてしまったのさ。初対面の知らない人に。

でもね。わかるんだ。アドバイスをくれた人は唯一の共通項を探そうとしてくれたんだって。それでも己は望んでいなかった、それだけなんだって。それだけさ。

難しいなぁ、と思う。あぁ、切ない。
でもきっと、切ないことがあったからには楽しいこともあるのさ。人生は。それを望みに、生きていこう。