日記録0杯, 14周年企画, M.S.SProject, 日常

2017年6月3日(土) 緑茶カウント:0杯

さしもの夜型人間の己であっても、二十一時に目が覚めたら驚くのである。しかもそれは携帯電話の振動音によって無理矢理覚醒されてのもの。かの振動音が無ければいつまで寝続けていたかわからない。

疲労の自覚はあったがここまでとは。我ながら驚くばかりである。

さて、睡眠と読書以外にろくろく何もしていない今日。せっかくなので日記を書こうかな、ということで14周年企画でいただいたラストのお題「M.S.S.Phantasia感想と、M.S.S. Projectの現在の印象」について書いてみようか。「M.S.S.Phantasia」が発売されてからおよそ四ヶ月。エンドレスリピートの日々を過ぎ当初の興奮は落ち着いている今、感じることとは何だろう。

聴き始めの当時を思い出してみると、最初の印象は「随分ポップになったな」というものであった。「M.S.S.Planet」「M.S.S.Phantom」と違い、ライブの存在が大きく意識されているように感じる。それは前作「M.S.S.Party」にも感じたもので、より一層顕著になったのが今作「M.S.S.Phantasia」である。いかに皆で盛り上がるか、盛り上げるかということが要になっているように思う。

その象徴たるものが「MISSING LINK」と「I’ll be…」である。前者はあろまほっと、後者はeoheohによる歌唱だ。今までCDにおいて、彼ら二人は無駄トークとコーラスの一部でしか姿を見せていなかったが、ついにこの二人が音楽にも身を乗り出した。彼ら二人はライブにおいてはパフォーマーの役割を担い、初めて観たライブでは各々が思い思いに動いていたが、二回目のライブでは曲に合わせた振り付けのもと、世界観を演出していた。そして三回目に行った武道館ライブではメドレーで代わる代わるソロを披露。たどたどしさもありながら、役割の幅が広がった瞬間を見せてくれ、大いに驚いたことを覚えている。

そこに至る過程を己は知りえないが、活動をする中で「もっとやりたい」という思いが生まれ、その結果であるのなら、それはとてもわくわくするもので、素敵だ。自分の領域以外のところへ踏み込み進んでいく、それは「今後、いかに変化していくか」期待させるものである。

M.S.S. Projectとは不思議なグループだ。音楽がやりたかった二人が集い、四人でゲーム実況を始め、ゲーム実況によって名を馳せた。そうしてCDを発売し、ライブを行いつつゲーム実況も続けながら、それぞれが書籍を発売し、様々なメディアとコラボレーションを組む。その軸はきっと音楽とゲーム実況なのだろうが、やろうと思えば何にでも進出できるのではなかろうか、と思わせるところが面白い。

アルバムでは「Glory Soul」「プロトレジエム」「WAKASAGI」「ReBirth」を特に気に入っている。中でも一等好きなのが「プロトレジエム」で、この系統の曲だけ集めたアルバムを作って欲しい!! と思うほどだ。中盤の「ベーンッベーンッ……」と続くところが気持ち良く、いつまでも聴いていたいと思う。

「Glory Soul」はまず、「貴方がたは海賊だったのかい」と突っ込みつつも、ミュージカルのような曲調が楽しくてたまらない。この曲はライブでも楽しかったなぁ。何となく、彼らの頭の中の海賊はONE PIECEの世界観のそれのように感じる。冒険をして、戦って、宴会をして大笑いをする陽気な奴ら。家族ではないが擬似的な家族に近い存在。M.S.S. Projectにも通じるところがあるだろう。

「WAKASAGI」は何と言ってもFB777の伸びやかな声が耳に心地良い。何度か書いているが、あらゆるものから解放された歌のお兄さんを彷彿とさせる清清しさが大好きだ。とても気持ち良さそうに歌っているなぁ、と思うのだ。この曲は頭の中に映像が展開される。昔観たNHKの「みんなのうた」のような素朴でカラフルな映像が頭の中のテレビ画面に映し出されて、楽しい。

「ReBirth」はちょっとした発見があった。初音ミクの言葉が最初から聴き取れたのだ。M.S.S. Projectの音楽を聴くまで初音ミクとは縁が薄く、電子的な声に慣れていないせいか、歌と言うよりも「音」として聴こえていたため、言葉として認識するまで結構な時間がかかっていた。しかしこの「ReBirth」については最初から「初音ミクの声」としてその言葉を聴き取ることが出来たのである。M.S.S. Projectの音楽を聴くうちに耳が慣れたこともあるだろうが、はっきりくっきり発声されていることも大きいだろう。この曲は聴いていると頭の中に青空が広がる。爽やかで綺麗な曲だ。

「音楽をやりたい」から始まり、作りたい音楽を作る中で、音楽を聴くオーディエンスの存在がだんだんと意識されるようになっているように感じる。ファンを楽しませたい、喜ばせたい、一緒に楽しみたい、そんな思いが創作に反映され、変化しているように思う。

ニコニコ動画は視聴者が投稿したコメントが動画に反映されるシステムだ。もともと彼らの活動の場所は、視聴者やファンの声が届きやすい環境で、その存在を意識しやすい。だからこそ、視聴者やファンをいかに楽しませるか、ということは常から意識されているものだろう。それがライブでより一層ダイレクトに届くようになり、受け取ったものを咀嚼し、飲み込み、新しいものができる。「ライブ」の影響を受けてできたであろう「M.S.S.Phantasia」から、次回作でどのように変化するかが興味深い。

M.S.S. Projectの印象自体は、実は当初から今に至るまで大きく変わらない。彼らは一つの憧れであり、己にとっての幻想である。彼らの活動を見ていて思い出すのは学生時代の仲間達とのふざけ合い。毎日のように顔を合わせ、学食で安いカレーを食べながら何時間も話し、誰かの家に集って酒を呑んで笑い合う他愛の無い日々。社会人になってからはなかなか得られない時間を懐かしみつつ、生じるのは憧れとうらやましさ。それは小さな夢である。そしてまたその夢を、いつまでも見せて欲しいと願う。ONE PIECEの海賊のような、擬似家族のような関係性。そこに映し出されるものこそがある種のファンタジーであり、はたまたユートピアかもしれない。



日記録14周年企画, 4杯, 日常

2017年5月14日(日) 緑茶カウント:4杯

筋肉少女帯の楽曲「サーチライト」に「カリブロなんかは十九で死んだ」という歌詞がある。カリブロは若くしてこの世を去った非実在の詩人の名前である。故に、彼の名前をスーパーの野菜売り場で見たときには驚いて、思わず数歩通り過ぎた後早足でバックしてしまった。

またの名をロマネスコ。奇妙な形の野菜である。花蕾がフラクタル図形を描いていて、見ていると吸い込まれそうになる。食べたことはないが、味はカリフラワーやブロッコリーに近いらしい。

このカリブロをいつか料理してみたいと思いつつ、食欲を感じないまま今に至っている。

リクエスト企画で頂いたお題「作ってみたい料理、もしくは調理してみたい食材」について、リクエストを頂いてからたびたび考えてみたが、これという答えは出てこなかった。と言うのも自分は食に対して非常に保守的で、言ってしまえば「食べたことのあるものしか食べたくない」のである。未知の味を知る喜びよりも、美味しいとわかりきったものを食べる安心感を得たいのだ。故に何度も足を運んでいる店でも毎回同じ料理を食べ、それで満足してしまう。また、味の検討がつかないものが不得手なので、子供の頃に触れて来なかったエスニック料理やモツ料理はあまりお近づきになりたくない。材料の類推が出来ないものも苦手である。例えばテリーヌなど。我ながら面倒くさいと思う。

カリブロの名前を知らないまでも、写真を見たのは何年も前で、その数年後あちこちのスーパーで見かけるようになった。時と共に一般化し、流通するようになったのだろう。それから週に一度の買出しでスーパーに行くたびにカリブロを見てはその花蕾を眺め、興味深く思いつつ手に取ることなく素通りして、いつも買っている大根、玉ねぎ、ごぼう、ほうれん草を籠の中に入れている。頭の中に響くのは「サーチライト」を歌う声。カリブロなんかは十九で死んだ! あぁ、十九で死んだカリブロがスーパーの野菜売り場に並ぶ日が来ようとは! カリブロも夢にも思うまい!

いつか食べることがあるのだろうか。もしかしたら一生ないかもしれない。しかし歌声は一生響き続けるだろう。彼の野菜を見るたびに。

十九で死んだカリブロは、今は野菜売り場で休んでいる。



日記録0杯, 14周年企画, 日常

2017年4月30日(日) 緑茶カウント:0杯

子供の頃は夕飯の時間にアニメが流れていた。あれは五歳の頃だっただろうか。「今日から新しいアニメがあるから観てみない?」と母に言われ、視聴を始めたのが「クレヨンしんちゃん」。当時の自分はしんのすけと同い年。いつからかしんちゃんのアニメを観なくなったものの、たまにしんちゃんのイラストを見ると当時と変わらぬ姿で駆ける彼の姿に、時の流れをしみじみと感じる。

クレヨンしんちゃん、セーラームーン、ドラえもん、チンプイ、キテレツ大百科。ちびまる子ちゃん、サザエさん、ツヨシしっかりしなさい、とんでぶーりん、忍たま乱太郎、平成イヌ物語バウ。学級王ヤマザキ、ポケットモンスター、スラムダンク、るろうに剣心。七つの海のティコ、ロミオの青い空。ブラックジャック、犬夜叉、名探偵コナン。魔法陣グルグル、ぼのぼの、クマのプー太郎、ONE PIECE。これらを親と一緒に食卓を囲みながら観た記憶がある。アニメに夢中になって箸が止まるたびに母に叱られたものだ。

我が家はわりと自由にアニメを観せてもらえる家で、チャンネル権を譲ってもらえることも多かった。十九時には大抵アニメが流れていて、毎週毎週わくわくしたものだ。そんな中で特に好きだったのは「クレヨンしんちゃん」「七つの海のティコ」「ONE PIECE」。

「クレヨンしんちゃん」をどうして自分は好んでいたのだろう。あえて理由を考えてみるとわからないが、尻を出したり局部を出したり、自由闊達に生きている様が爽快だったのかもしれない。それでいて決して下品なだけでなく、しんちゃんと本屋のやりとり、しんちゃんと不良のやりとりが面白くて仕方なかったのだ。

「七つの海のティコ」はシャチと少女の関係性に憧れを持った。海を自由に泳ぎ、シャチと会話をする少女。物語の詳細を覚えてはいないが、あの海の描写がとても好きで、ティコが死んでしまったときはとても悲しく寂しかった記憶がある。

「ONE PIECE」を初めて観たのはクリスマススペシャルか何か。アーロン編のクライマックスで、ルフィがナミの部屋をぶっ壊すシーン。それまで「ONE PIECE」を読んだことはなく、タイトルから服飾をテーマとした少女漫画と勝手に想像していたのだが、全く違う内容であったことを思い知った日であった。それから単行本を買い集め、ジャンプを買うようになったのだ。それまではコロコロを読んでいた。

あぁ、忘れてはいけないアニメがあった。「ゲゲゲの鬼太郎」である。小学生の頃、レンタルショップで「ゲゲゲの鬼太郎」の第三期を借りてもらい、それから鬼太郎と妖怪の魅力に夢中になった。家にあった鬼太郎の文庫本や妖怪図鑑にのめりこみ、べとべとさんの存在を身近に感じて夜道に恐怖を覚えたものだ。そうして妖怪の苗床を育み、大学生の頃に発売された「ゲゲゲの鬼太郎」第四期のDVDボックスを、アルバイト代を貯めて買ったのだ。確か四万か五万か。当時で一番高い買い物だった。

さらに同時期に深夜アニメで「墓場鬼太郎」がスタートし、そのクオリティに毎週毎週大喜びしつつ、下宿先の部屋の本棚をゲゲゲの鬼太郎と水木しげる関連の書籍で埋めていったのだ。

水木しげるが亡くなったときの喪失感は計り知れなかった。同じ水木しげるファンの母とともに、仮に彼があの世に旅立つことがあっても、きっと彼は妖怪になるだけさと笑いあったものだが、実際にその場面に遭遇すると声の一つも出てこない。寂しかった。

成人してから夢中になったアニメと言えば、その筆頭は「おそ松さん」だろう。Twitterで「銀魂っぽいよ」と聴いて視聴を始めた第三話。そこから週を重ねるごとに夢中になり、気付けばブルーレイまで買っていた。「おそ松さん」の魅力についてはこれまでにも語っているが、やはりあの「異常な日常」を垣間見る気持ち悪さとほのかな違和感が魅力だろう。月曜日の深夜、「えっ……何だこれ……?」と動揺しながら布団に潜るあの感覚。あれをまた味わいたい。

あとOVAでは「HELLSING」も素晴らしかった。単行本を読んで心をつかまれ、レンタルショップで少しずつ借りて観ては興奮した。あの作品をよくアニメに出来たものだと感嘆する。あの台詞回しを耳で楽しむことが出来て実に嬉しかった。

そうそう忘れてはならないジブリ作品。「もののけ姫」が最高に好きで、それはきっと思うに、ゲーム「サムライスピリッツ」のナコルルに惚れた小学一年生のあの日から地続きになっているのだろう。アニメではなく漫画だが、「乙嫁語り」のアミルさんへの愛も地続きであるように感じる。しばらく「もののけ姫」のポスターを部屋に貼っていたなぁ。

そして今願っているのが、いつか「魔人探偵脳噛ネウロ」の完全版アニメを観てみたいということ。あぁ、いつか。願うならいつか。テレビ版? ……ははははは。ははははは。いつか観てみたいものである。



日記録0杯, 14周年企画, 日常

2017年4月16日(日) 緑茶カウント:0杯

14周年企画でお題をいただいてから、ずっと外に出るたびに探し物をしている。道端に咲くほがらかな花、目が合った野良猫との数秒間のひととき、いつも全身黒尽くめの女の人、桜並木の色合いの変化、良い匂いのするパン屋、ふっくらしたすずめ、日々やわらかくなる日差し、壊された家屋に、平らにされる土地に、新しく建てられる何かと、騒音を謝罪する看板。それらに感じる親しみや小さな喜びを舌の上で転がし、これかなこれかなと吟味する。まだ己は出会えていない。

「行き帰りでの『うれしい』できごと」というお題にふさわしい、何か嬉しく、素敵なこと。空気を嗅いで、イヤホンを外して、視線を泳がせながら歩く。お題をいただいたのはおよそ二ヶ月前。それからずっと、外に出るときにはこのお題が頭の隅にあった。二ヶ月間ずっとうれしいことを探しながら歩く道。大きな発見は何もない。しかしささやかな変化はあった。ただの行き帰りに小さな目的が出来たのである。

名前も知らない路傍の花に問いかける。君に出会えて己は嬉しいだろうか。嬉しくないってことはないんじゃないかい、と己は答える。そしてさくさく歩き出す。探し物は見つからない。見つからないけど探している。見つからなくても良い気もしている。



日記録0杯, 14周年企画, M.S.SProject, 日常

2017年4月9日(日) 緑茶カウント:0杯

ゲーム実況なるものを見むとて見るなり。

ゲーム実況なるものを見たのは今までに三回。二回はパシフィコ横浜で、三回目は武道館。どちらもM.S.S. Projectのライブの一幕で催された。大きな会場でテーブルを囲み、ちんまり集まる四人を眺めつつ、巨大なスクリーンに映し出されたゲームの行く末を見守るのはなかなか奇妙な体験だった。

そもそもゲーム自体と縁遠くなって久しい。一番遊んだゲーム機はスーパーファミコンで、初めて触れたのはスーパーマリオコレクション。両親がある日スーパーファミコンと一緒に買ってきて、家族で夢中になってプレイした。両親はマリオ2、自分はマリオ3を熱心に遊んだ記憶がある。マリオUSAは追いかけてくる仮面が怖くてついにクリアできなかった。

初めて親にねだって買ってもらったゲームは同じくスーパーファミコンのサムライスピリッツ。小学校一年生の頃だったか、友人の家で遊ばせてもらい、その面白さにやみつきになって欲しい欲しいと頼んだのだ。クリスマスに枕元の包みを開いてこれを手にしたときの喜びと言ったら。今でも実家の物置を探れば箱と取扱説明書が出てくるはずである。メインで使っていたキャラクターはナコルルで、彼女をきっかけにアイヌ文化に興味を持った。

以降、星のカービィスーパーデラックス、ヨッシーアイランド、スーパーマリオRPG、パネルでポン、ワンダープロジェクトJ2、ポケットモンスター(青)などなど、様々なゲームを楽しく遊んだが小学校高学年の頃に転機が訪れる。ぷよぷよSUNにはまってからゲームをプレイする以上に攻略本集めに夢中になり、中古屋をめぐってぷよぷよ関連の書籍とみれば例え自分が持っていないゲームでも片っ端から買い集めては熟読し、ほんの一文でも他の本にない情報や裏話、小ネタを見つければにやにやと喜ぶようになったのである。

最後にどっぷり遊んだのは初代プレイステーションのヴァルキリープロファイルとわくわくぷよぷよダンジョン決定盤。その後はたまに、今でも現役のゲームボーイアドバンスでポチポチとテトリスやもじぴったんを年に数回プレイする程度である。

そんなありさまなのでゲーム実況という文化にも縁遠く、またもう一つの理由でも自分とは無縁のものと思っていた。

ある日知人に己のはまっているアニメについて話したところ、「それじゃあyoutubeで観てみますね」と言われ、苦笑いを浮かべつつ「youtubeはダメですよ」と返したところ、「そんなことないですよ。最近はすぐにyoutubeにアップされるんですよ!」と朗らかに笑われ頭を抱えたことがあった。「youtubeはダメ」という言葉をこのように解釈されるとは悩ましい。また別の場面では反対に、己が「このアニメ気になるな、観てみようかな」と呟いたところ、「ここで観られますよ」と無断アップロードされた動画のURLを教えてくれた善意の人もいた。参ったなぁと思いつつその人には形式ばかりの礼を伝え、目当てのアニメはレンタルショップを利用して視聴した。

悩ましいなぁと思う。ゲームそのままではなく実況と言う新しい要素が加えられているとはいえ、これをどのように解釈すべきか。ゲーム実況とは作り手側が本来想定していなかった新たな要素を加えることで、新しい価値が生み出されたものだ。その予期されていなかったものにより化学反応が起こる事象そのものは大変好みで興味深い。が、しかし……。

念のため断っておくと、己はゲーム実況と言うジャンルとそれを楽しむ人々を頭から批判しているわけではない。戦後の闇市が盛り上がった結果地域が活性化し、観光名所となることもある。著作権的にはグレーな同人誌即売会が、企業にその価値を認められることもある。そしてそれはサブカルチャーを語るうえで度外視できない日本の文化の一つである。本来のルールに則ればダメであっても、ルールを逸脱することで新たな価値が生まれることもあるのだ。

よって懸念すべきはただ一つ。自分自身の整合性だ。他者の価値観はどうであれ、自分自身が納得できないといけないのである。

さぁ、どうしたものかと頭を悩ませつつゲーム実況について調べていたら驚いた。なんと、今はゲーム会社公認のものもあると言う。一定のルールに則れば投稿が承認されるゲームもあるようだ。こいつぁすごいな、面白い。本来は「ダメ」だったものが大きな価値を形成することで認められ、新たなルールが作られて推奨される。いいじゃん。素敵じゃん。

安心したところで、ではそれを観ようかと探したところ、「マインクラフト」なるゲームが会社公認で、ちょうど今リアルタイムで投稿されているようだったのでこれを観ることにした。初代プレイステーションで止まっている自分はもちろん、このゲームをプレイしたことはない。

初めてゲーム画面を観てまず思ったことは、己がゲームにはまっていた頃よりも技術が進歩しているはずなのにやけにカクカクしてんな、ということだった。しかしマリオ64のように、画面の端々に時折不安定さが感じられるポリゴンではなく、角ばっているのに世界の隅々までなめらかだ。程なくしてこの世界は人も木々も動物も建物も、全てブロックで構成されていることを理解した。そして人々は土を掘って家を作り、ベッドで眠り、畑を耕して作物を味わい、化け物に襲われてアイテムをバラ撒き、魔法によって超人的な力を得て、その力で土を掘ったり家を作ったり化け物を襲ったり化け物に襲われたりするのである。

動画の投稿は毎日行われ、週が新しくなるごとに一週間のテーマが変わり、その目標達成を目指してM.S.S. Projectの四人は活動する。広大な世界にはあらゆる化け物と数多くの砦があるようで、それらを攻略してレアアイテムを手に入れて自身を強化していくことが一貫した行動指針のようだが、今のところこの世界に何が起きていて、何を持ってすればゲームクリアになるのかは読み取れない。もしかしたら己が知っている昔ながらのゲームと違い、ゴールのあるストーリーは用意されていないのかもしれない。

パシフィコ横浜でゲーム実況を観たときにも思ったが、友達の家に集まって、交代交代でプレイしながらゲームで遊んでいるときの感覚に似ている。いつだったか大学時代の友人同士である一人の家に集まり、酒を呑みながらロックマンをプレイして、わーわーやーやーはしゃいだことがあった。あの感覚にとても近い。まるで画面の前に座ってコントローラーを握るM.S.S. Projectのメンバーの後ろで、座椅子に背中を預けながらビールを呑み、わーわーやーやー言っているような気分になるのだ。この感覚が面白いのかもしれない。

ゲームはそもそも疑似体験の遊びである。プレイヤーはキャラクターの姿を借りてゲームの世界に降り立ち、冒険にしろ格闘にしろパズルにしろ、その世界で遊びまわる。対してゲーム実況は、コミュニケーションの疑似体験と言えるかもしれない。子供の頃友人と並んでテレビ画面の前に座り、コントローラーを握った感覚。時には協力プレイをし、時には殴りあいをし、「あのアイテムをとるからお前あっちの敵倒してよ」「わかった」とやりとりする楽しさ。そしてその子供達の後姿を見守る母親の姿。

思い返してみると、今は亡き己の母親がゲームの観戦が好きで、自分がヨッシーアイランドなどで遊んでいると「あっちに敵がいるよ」「上にアイテムがあるよ」「強かったねえ!」と語りかけてきた。時にその声はプレイの邪魔になることもあり、「わかってるからちょっと黙って!」と怒る場面もあったが、そうして観戦する母の声を聴きながら遊ぶのもまた楽しかった。

あの友人や家族と一つのゲームを一緒に遊ぶ感覚を疑似体験できる楽しさ。そして隣に座る友人に感じる親しみと同じものを画面の先の実況者に抱き、より一層彼らを好きになっていくのではなかろうか。実況動画で観る彼らは書籍やライブ、音楽で知るものとはまた違った一面もあり、新たな発見もあった。ライブで観る彼らのやりとりは講義のない時間の大学生のような気安さで、それが非常に好ましいと思っていたが、さらにそれが如実に表れているように思う。

とはいえ、やっぱりゲームは他者のプレイを観るよりも、せっかくなら自分でプレイしたい。そういえばMSX版魔導物語が再発されたとき、せっかく買ったのに寝かしすぎていざプレイしようとしたら所有のパソコンでは起動しない、なんてこともあった。あれも近年になって改めて再発されているようなので今度こそと手にとってみようか。また寝かせてしまったらどうか笑って欲しい。