ゲーム実況なるものを

2017年4月9日(日) 緑茶カウント:0杯

ゲーム実況なるものを見むとて見るなり。

ゲーム実況なるものを見たのは今までに三回。二回はパシフィコ横浜で、三回目は武道館。どちらもM.S.S. Projectのライブの一幕で催された。大きな会場でテーブルを囲み、ちんまり集まる四人を眺めつつ、巨大なスクリーンに映し出されたゲームの行く末を見守るのはなかなか奇妙な体験だった。

そもそもゲーム自体と縁遠くなって久しい。一番遊んだゲーム機はスーパーファミコンで、初めて触れたのはスーパーマリオコレクション。両親がある日スーパーファミコンと一緒に買ってきて、家族で夢中になってプレイした。両親はマリオ2、自分はマリオ3を熱心に遊んだ記憶がある。マリオUSAは追いかけてくる仮面が怖くてついにクリアできなかった。

初めて親にねだって買ってもらったゲームは同じくスーパーファミコンのサムライスピリッツ。小学校一年生の頃だったか、友人の家で遊ばせてもらい、その面白さにやみつきになって欲しい欲しいと頼んだのだ。クリスマスに枕元の包みを開いてこれを手にしたときの喜びと言ったら。今でも実家の物置を探れば箱と取扱説明書が出てくるはずである。メインで使っていたキャラクターはナコルルで、彼女をきっかけにアイヌ文化に興味を持った。

以降、星のカービィスーパーデラックス、ヨッシーアイランド、スーパーマリオRPG、パネルでポン、ワンダープロジェクトJ2、ポケットモンスター(青)などなど、様々なゲームを楽しく遊んだが小学校高学年の頃に転機が訪れる。ぷよぷよSUNにはまってからゲームをプレイする以上に攻略本集めに夢中になり、中古屋をめぐってぷよぷよ関連の書籍とみれば例え自分が持っていないゲームでも片っ端から買い集めては熟読し、ほんの一文でも他の本にない情報や裏話、小ネタを見つければにやにやと喜ぶようになったのである。

最後にどっぷり遊んだのは初代プレイステーションのヴァルキリープロファイルとわくわくぷよぷよダンジョン決定盤。その後はたまに、今でも現役のゲームボーイアドバンスでポチポチとテトリスやもじぴったんを年に数回プレイする程度である。

そんなありさまなのでゲーム実況という文化にも縁遠く、またもう一つの理由でも自分とは無縁のものと思っていた。

ある日知人に己のはまっているアニメについて話したところ、「それじゃあyoutubeで観てみますね」と言われ、苦笑いを浮かべつつ「youtubeはダメですよ」と返したところ、「そんなことないですよ。最近はすぐにyoutubeにアップされるんですよ!」と朗らかに笑われ頭を抱えたことがあった。「youtubeはダメ」という言葉をこのように解釈されるとは悩ましい。また別の場面では反対に、己が「このアニメ気になるな、観てみようかな」と呟いたところ、「ここで観られますよ」と無断アップロードされた動画のURLを教えてくれた善意の人もいた。参ったなぁと思いつつその人には形式ばかりの礼を伝え、目当てのアニメはレンタルショップを利用して視聴した。

悩ましいなぁと思う。ゲームそのままではなく実況と言う新しい要素が加えられているとはいえ、これをどのように解釈すべきか。ゲーム実況とは作り手側が本来想定していなかった新たな要素を加えることで、新しい価値が生み出されたものだ。その予期されていなかったものにより化学反応が起こる事象そのものは大変好みで興味深い。が、しかし……。

念のため断っておくと、己はゲーム実況と言うジャンルとそれを楽しむ人々を頭から批判しているわけではない。戦後の闇市が盛り上がった結果地域が活性化し、観光名所となることもある。著作権的にはグレーな同人誌即売会が、企業にその価値を認められることもある。そしてそれはサブカルチャーを語るうえで度外視できない日本の文化の一つである。本来のルールに則ればダメであっても、ルールを逸脱することで新たな価値が生まれることもあるのだ。

よって懸念すべきはただ一つ。自分自身の整合性だ。他者の価値観はどうであれ、自分自身が納得できないといけないのである。

さぁ、どうしたものかと頭を悩ませつつゲーム実況について調べていたら驚いた。なんと、今はゲーム会社公認のものもあると言う。一定のルールに則れば投稿が承認されるゲームもあるようだ。こいつぁすごいな、面白い。本来は「ダメ」だったものが大きな価値を形成することで認められ、新たなルールが作られて推奨される。いいじゃん。素敵じゃん。

安心したところで、ではそれを観ようかと探したところ、「マインクラフト」なるゲームが会社公認で、ちょうど今リアルタイムで投稿されているようだったのでこれを観ることにした。初代プレイステーションで止まっている自分はもちろん、このゲームをプレイしたことはない。

初めてゲーム画面を観てまず思ったことは、己がゲームにはまっていた頃よりも技術が進歩しているはずなのにやけにカクカクしてんな、ということだった。しかしマリオ64のように、画面の端々に時折不安定さが感じられるポリゴンではなく、角ばっているのに世界の隅々までなめらかだ。程なくしてこの世界は人も木々も動物も建物も、全てブロックで構成されていることを理解した。そして人々は土を掘って家を作り、ベッドで眠り、畑を耕して作物を味わい、化け物に襲われてアイテムをバラ撒き、魔法によって超人的な力を得て、その力で土を掘ったり家を作ったり化け物を襲ったり化け物に襲われたりするのである。

動画の投稿は毎日行われ、週が新しくなるごとに一週間のテーマが変わり、その目標達成を目指してM.S.S. Projectの四人は活動する。広大な世界にはあらゆる化け物と数多くの砦があるようで、それらを攻略してレアアイテムを手に入れて自身を強化していくことが一貫した行動指針のようだが、今のところこの世界に何が起きていて、何を持ってすればゲームクリアになるのかは読み取れない。もしかしたら己が知っている昔ながらのゲームと違い、ゴールのあるストーリーは用意されていないのかもしれない。

パシフィコ横浜でゲーム実況を観たときにも思ったが、友達の家に集まって、交代交代でプレイしながらゲームで遊んでいるときの感覚に似ている。いつだったか大学時代の友人同士である一人の家に集まり、酒を呑みながらロックマンをプレイして、わーわーやーやーはしゃいだことがあった。あの感覚にとても近い。まるで画面の前に座ってコントローラーを握るM.S.S. Projectのメンバーの後ろで、座椅子に背中を預けながらビールを呑み、わーわーやーやー言っているような気分になるのだ。この感覚が面白いのかもしれない。

ゲームはそもそも疑似体験の遊びである。プレイヤーはキャラクターの姿を借りてゲームの世界に降り立ち、冒険にしろ格闘にしろパズルにしろ、その世界で遊びまわる。対してゲーム実況は、コミュニケーションの疑似体験と言えるかもしれない。子供の頃友人と並んでテレビ画面の前に座り、コントローラーを握った感覚。時には協力プレイをし、時には殴りあいをし、「あのアイテムをとるからお前あっちの敵倒してよ」「わかった」とやりとりする楽しさ。そしてその子供達の後姿を見守る母親の姿。

思い返してみると、今は亡き己の母親がゲームの観戦が好きで、自分がヨッシーアイランドなどで遊んでいると「あっちに敵がいるよ」「上にアイテムがあるよ」「強かったねえ!」と語りかけてきた。時にその声はプレイの邪魔になることもあり、「わかってるからちょっと黙って!」と怒る場面もあったが、そうして観戦する母の声を聴きながら遊ぶのもまた楽しかった。

あの友人や家族と一つのゲームを一緒に遊ぶ感覚を疑似体験できる楽しさ。そして隣に座る友人に感じる親しみと同じものを画面の先の実況者に抱き、より一層彼らを好きになっていくのではなかろうか。実況動画で観る彼らは書籍やライブ、音楽で知るものとはまた違った一面もあり、新たな発見もあった。ライブで観る彼らのやりとりは講義のない時間の大学生のような気安さで、それが非常に好ましいと思っていたが、さらにそれが如実に表れているように思う。

とはいえ、やっぱりゲームは他者のプレイを観るよりも、せっかくなら自分でプレイしたい。そういえばMSX版魔導物語が再発されたとき、せっかく買ったのに寝かしすぎていざプレイしようとしたら所有のパソコンでは起動しない、なんてこともあった。あれも近年になって改めて再発されているようなので今度こそと手にとってみようか。また寝かせてしまったらどうか笑って欲しい。



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