しんどいなら、分析しましょうぞ

2016年8月16日(火) 緑茶カウント:0杯

祖父母の家に行って帰ってきた。疲れた。しんどかった。ここ十年ほど、祖父母の家に行くたびに己の精神は疲弊する。出来ることならば行きたくないのが本音である。しかし年老いた祖父母は会いたがっている。では、年に一度の盆くらい向かおうか、と思うもののしんどさはそのままあり続け、とにかく辛い。

そこで、己がどこにしんどさを感じるのか書き上げて行ってみようと思う。

(1)言葉がわからない
冗談でもなく、馬鹿にしているわけでもなく、事実として半分ほどわからないのである。大分に住む祖父母と、群馬で育った自分。方言の種類が違うのである。そうして祖父母の方言は、つらつらと語られると文節の区切りも判断がしづらく、何を話しているのかよくわからないのである。

さらに、今の話をしているのかと思いきや昔話だったり、地域独特の固有名詞を当たり前のようにスルッと出されると、話を聞き取るのも難しく、相槌を打つしか方法が無く、ろくな返答を得られない祖父母は穏やかな笑みを浮かべたままがっかりするのである。

(2)共通の話題が少ない
まず己はさほどテレビを観ない。映画も観ない。テレビは朝のニュースを見る程度、映画はこの間数年ぶりにシン・ゴジラを観たくらい。オリンピックにもワールドカップにも興味がなく、当世流行の俳優もろくに知らない。ドラマも観ない。

祖父母の家では自然居間に集うことが多く、そこで映っているチャンネルを観る。そうして「この俳優は誰か」「このドラマを観ているか」と質問を受けるのだが、「知らない」「観ていない」としか答えられず、何故観ないかと問われれば「時間が合わない」「興味がない」としか答える術がないのである。

また、音楽番組が流れたとき、「最近の若いもんはこういう音楽が好きなんじゃろう」と話を振られるものの、己の好きなミュージシャンは基本テレビに出演せず、その番組に出ているミュージシャンも己が知らない人ばかり。彼らに対して何かしらの講釈を行うこともできず、「自分は知らないので何とも言えないですが、流行っているみたいですね」としか言えないのである。

(3)食事の量が多い
つらい。とてもつらい。炎天下出かける先もなく、外に出ても店もない山奥である。やることと言えば専ら室内で本を読むことばかりでろくに体を動かさないのに、きちんきちんと三食たっぷり食事が出され、おやつまでついてくる。腹の中がこなれる前に次の食事が出てきて、量がまた多いのだ。己はもう三十で十代の頃の食欲はない。しかし伝えても実感として沸き起こらないらしいのである。

(4)テレビの人に対し根拠なく暴言が飛ぶ
テレビに向かって好き勝手喋っていると言えばそれまでだが、例えば美しい女優が映ったとき、「こういうのはどうせ料理なんかでけんぞ」と言う。もしかしたら、そう言うことでその場にいる「平凡な容貌の女性」を褒めているのかもしれない。その場にいる男性陣に「容貌だけを重視するべきではないぞ」と伝えているつもりなのかもしれない。ただテレビに映る美しい人はただ美しいだけであり、何の根拠もなく暴言を吐かれる言われなどないのである。

己の両親はそんないい加減なことを口にしなかったし、そんなことをしてはいけないと教えてくれていただけに、ただ悲しい。

(5)家族は一緒に住むのが良いと諭される
祖父母と食卓を囲みながら、「やはり大勢で食事をするのは美味しかろう?」と言われる。そうして、現在父・自分・妹がそれぞれ一人暮らしをしていることに言及されるのである。そうして己や妹の生き方にまで言及されるのである。知っているよ家族の団欒が楽しいってことは! ただそれぞれ事情もあるし、この食卓と比べたら一人でささっと食べる飯の方がずっと美味しいよ! 気楽だから! と思うも流石に口は閉ざしている。

(6)結婚とひ孫を望まれる
良いじゃないかあなた方は四人の孫に恵まれたのだから! それで充分じゃあないかと言いたいが欲望は尽きることがない。良い人はいないか、見合いをしないか、ひ孫を作ってくれ……勘弁してくれ!

ちなみに自分は跡取りもしくは跡継ぎという立場であり、よそ様に紹介されるときには必ずそれを言われている。オーケー、後は継ごう。ただし先は続かないけどな!

(7)男性らしさ女性らしさを望まれる
仕方ないのかもしれないが、その傾向が強い。やれ髪が長い短い、男んじょうはそんなリュックは持ち寄らん、などなど。放っておいてくれよ! このリュックはメンズだよ! 料理が出来るから何だよ! 炊事洗濯なんざ人間として生きるための必須スキルだよ!

(8)欲しいものがない
こんなことを言っちゃあいけないかもしれない。ただ事実として、八月の前半己は非常に忙しかった。疲れていた。くたくただった。そんな中で大分への移動。飛行機と高速バスと自動車を組み合わせてようやく着いたスーパーもない山奥で、己はただ寝たかった。
ただ祖父母は、ずっと家にいてもつまらなかろう、と言って、片道一時間以上かけて己を道の駅とスーパーに連れて行ってくれた。何でも欲しいもんを買うちゃるぞと言われた。しかしその時点で昼に食べた飯がまだこなれていなく、欲しいものもさほどなく、ただただ休息をとりたくて、長旅の末巨峰だけ買って我々は帰ったのだった。
申し訳ないと思ったが、欲しいものが見つからず、親切心はありがたかったが、その温度差がしんどかった。

(9)小遣いをくれる
以上のことにより、どちらかと言うとぐったりしていて、あまり好意的なやりとりが出来ていないにも関わらず、小遣いをくれるのである。いらないと言っても「小遣いをやるのが楽しみだから」と言われ、結局受け取るのである。十三万。小遣いという額だろうか、これが。
そうして自分は、ろくろく期待に応えられてもいないくせに、小遣いをもらってへらへら笑う卑怯者に成り下がるのである。


以上。これが分析の結果であり、帰宅した後己はしばらく鬱々としていた。幼少の頃は屈託なく話が出来たのにいつから出来なくなったのか。そうして、憂鬱を愛する音楽で癒したのであった。

しんどい。申し訳ないが。申し訳ないのだが。



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